長保寺
長保寺は長保2年(1000)一条天皇の勅願寺として建立に着手し、寛仁元年(1017)に完成したといわれ、その後仁治3年(1242)寺地を東に移し、延慶4年(1311)現本堂が建立されたといわれています。当初は法相宗でしたが後天台宗、真言宗と変わり、紀州徳川家初代藩主頼宣公により菩提寺となって天台宗に改められました。
長保寺 本堂
本堂は桁行五間梁間五間一重入母屋造、向拝二間本瓦葺の建物で、延喜4年(1311)に建立され国宝に指定されています。和様を基調としていますが、円陣まわりには禅宗様が採用され、二つの様式を融和混合し、しかも独自の計画と好意匠に成功した和様唐様折衷様式の典型的な建築であります。
長保寺 大門
寺所蔵の棟礼写によって、嘉慶2年(1388)に後小松天皇の勅宣をうけ、寺僧の実然が建立したとされています。現在門の扁額は紀州徳川藩の菩提寺になってから頼宣が李梅渓に命じて模写させたもので、当初のものは妙法院二品親王尭仁の直筆といわれ、裏書に応永24年(1417)6月1日の刻銘があり、現在寺に保管されています。この大門は小形ではあるが、形態のよく整ったこの時代の代表的な楼門のひとつとされています。
長保寺 多宝塔
多宝塔は正平12年(1357)に建立された桁行三間、梁間三間、本瓦葺の塔で国宝に指定されています。
本堂が和様唐様の折衷様式であるのに対し、この塔は純和様を採用しており、一重と二重の釣合がよく均整のとれた優美な意匠を見せています。さらに著しく低い亀腹と、勾配のゆるい屋根などがよく調和して一層安定感を与えており、細部においても、力強い組物に、美しい蛙腹及び折上小組格天井の雄健な手法など外観、内部ともに多宝塔中の傑作の一つです。
長保寺 鎮守堂
本堂と多宝塔の間の小径を登ったところにある一間社流造、檜皮葺の小さな社殿で、重要文化財に指定されています。鎮守堂はかつて鎮守八幡宮、あるいは八幡社と呼ばれており、境内社であったと考えられます。建物の建立年代については不明ですが、寺伝では永仁3年(1295)となっており、様式上も鎌倉時代後期と考えられます。鎌倉時代にさかのぼる一間社流造の遺構として大変貴重な建物です。大門は三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺で国宝に指定されています。
和歌山藩主徳川家墓所
長保寺は、一条天皇(986~1010)の勅願によって、長保2年(1000)二品性空上人が七堂伽藍を創建し、長保の年号を賜り寺号にしたといわれています。現存する国宝建造物の建立年代からみて、鎌倉末期には現在の伽藍は完成していたとみられます。 寛文6年(1666)初代紀州藩主徳川頼宣が、三方山に囲まれた要害の地にあるこの地を廟所と定め、天台宗に改めました。浅野幸長より寄進された5石と、さらに寛文12年(1672)徳川家より500石を与えられました。墓所の規模は大きく、墓碑や石灯篭、墓所を造成する石垣等壮麗豪華な石造遺構は、全国的にも近世大名墓所の代表的なものであり、江戸時代の墓制葬制を知る上から、貴重な遺跡としてその価値が認められ、国史跡に指定されています。歴代藩主のうち8代吉宗と13代慶福は、将軍となったため墓碑はありません。
所在地
海南市下津町上689番地
駐車場
有り
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更新日:2021年03月01日